最新リリース

- 2024年12月25日
- 16曲
- HOSONO HOUSE · 1973年
- トロピカル・ダンディー · 1975年
- HoSoNoVa · 2011年
- HOSONO HOUSE · 1973年
- PACIFIC · 1978年
- HOSONO HOUSE · 1973年
- 薔薇と野獣 - Single · 2024年
- HOSONO HOUSE · 1973年
- AH!! · 2025年
- HOSONO HOUSE · 1973年
必聴アルバム
- 「半世紀も前のことなので、記憶も薄れています。『どこがいいんだろう?』と。いまだに聴いてくださる方がいるというのは驚きです」。50周年を迎える自身初のソロアルバムについて、細野晴臣はあまりに謙虚に、ひょうひょうとApple Musicに語る。1973年に発表され、世界中の幅広い世代のミュージシャンに影響を与え続けている名作『HOSONO HOUSE』。制作当時、細野は埼玉県狭山市にある通称“アメリカ村”に住んでいた。洋風の家が建ち並ぶそこには多くのミュージシャンが集まり、独自の音楽コミュニティを形成していた。日本のカルチャーとは異なる文脈にある当時のアメリカ村の雰囲気が、『HOSONO HOUSE』に色濃く反映されている。「当時僕が聴いていた西海岸辺りの音楽シーンは、ヒッピーカルチャーから徐々にカントリーに移っていく時期。僕の音楽もそれとかなり連動していました」 当時細野は、大滝詠一らと組んだバンド、はっぴいえんどに所属していた。はっぴいえんどは1972年の秋、ラストアルバム『HAPPY END』の制作のためにアメリカのロサンゼルスに行った。その時の体験が『HOSONO HOUSE』に大きく影響したという。「ロサンゼルスではリトル・フィートのレコーディング現場を見に行って。それが一番ショックでした。ローウェル・ジョージが楽器を持たずに指揮をしているとか、僕らがやったこともないようなレコーディング形態を目の当たりにして、圧倒的なエネルギーを感じた。そこで視野が広がりましたね。その時彼らが演奏していた『Two Trains』が、日本に帰ってからも頭の中でずっと鳴っていました」 細野は狭山のハウスでソロアルバムのレコーディングに着手する。『HOSONO HOUSE』は日本における宅録作品の先駆けとして知られるが、そのスタイルを選んだのは「自分で計画したというよりも、そういう状況だったから」と細野は説明する。「ハウスが音を出せる環境にあったし、はっぴいえんどで一緒にやっていたエンジニアの吉野(金次)さんが個人で新しい録音機材を買って、それを試したいというわけです。だから狭山ハウスは格好の実験場所になったんだね。僕としては全然満足してなくて、いまだにシンバルの音、大きいんじゃないの?って思うんだけど。でも、みんな音がいいって言ってくれるんだから、これはあんまり言わない方がいいか(笑)」 1970年代当時、アメリカではロックバンドのブームが下火になり、シンガーソングライターが台頭した。「ロックバンドのボーカリストはビートルズにしろザ・ビーチ・ボーイズにしろ、みんな声が高いんです。対して、シンガーソングライターの人たちは低めで、普通の大人の声だったから、それなら僕も歌えるなと思って、ロックバンドではなくシンガーソングライターの気持ちでやっていました。一番影響を受けた人はジェイムス・テイラー。歌だけじゃなく、ギターの奏法も影響されました」 アメリカの音楽シーンとリンクしながら細野が作り上げた音楽は、グローバルでありながら日本的な情感も漂わせ、独特の輝きを放った。それは国境を超えて人々を魅了していくことになるが、当時細野にその確信があったわけではない。むしろ自分は過渡期にあったという。「僕は過渡期にアルバムを出しちゃうくせがあって、だからいつも絶対に完成形にならない(笑)。このアルバムは(ソロで)初めて作った作品だし、試行錯誤の連続でバタバタしてたから、どこがいいのか自分ではよく分からないんです」 2019年には、全曲を新録したリメイクアルバム『HOCHONO HOUSE』を発表した。この時久々に『HOSONO HOUSE』を聴き返した細野は、全部作り変えたいと思ったという。「やはり若気の至りだったという気持ちはずっとある。声も当時に比べると今は音域が狭くなったけど、今の方が自分では好きなんです。だから歌い直すんだったら、今の自分の等身大の気持ちで歌おうと思った」。リメイクするに当たり歌詞は一部改変した。例えば「僕は一寸」の“日の出ずる国”は“日の沈む国”となった。「当時の歌詞のまま歌えなかった。日本はバブルが崩壊してからずっと低賃金のまま働いている国で、社会的な圧迫感はどんどん増している。だから今の気持ちで歌うためには、変えざるを得なかった」 『HOSONO HOUSE』が生まれて50年。時代がどんなに変わろうとも、細野の作る音楽は常に若い世代を引きつけてきた。細野も「若いバンドの中に、はっぴいえんどの感じが時々聞こえるんです」と言う。「あの頃は音楽業界というものがまだなかったし、あったとしても自分たちは関係なかったから、あまり目的もなく自然にやっていたんです。とにかくいい音楽を作るという目的しかなかった。でも今の時代にそれをやるのは、とても力がいるんだろうなと思う」。だからこそ細野は、音楽を志す若い世代にエールを送る。「びっくりするようなものを作ってほしいです。僕がやらなくてもいいやって思えるようなものをね」
- 2024年
ミュージックビデオ
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ベストアルバム、その他
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- 50周年を祝い、細野晴臣がみのと『HOSONO HOUSE』を振り返る。
細野晴臣について
日本のポップミュージックの開拓者であり、巨人と呼べる存在。細野晴臣ほど、ジャンルを自由に飛び越え、それぞれの分野で優れた作品と挑戦的な試みを残した才能は他にいないだろう。それでいて彼はポップアーティストとしての華も併せ持っており、しかもそのたたずまいは常にひょうひょうとしている。まさに空前絶後の才人だ。細野を語る上で、一つの側面だけに着目することには意味がない。例えば、一般的にはYELLOW MAGIC ORCHESTRAの一員として有名で、その事実だけでも世界水準のミュージシャンということになるものの、このバンドですら彼の膨大なキャリアにおいては一部分でしかない。翻って日本語ロックの祖、はっぴいえんどのメンバーだったことも知られているが、これも長い旅のほんの最初の数年間の話である。これ以外に認知されているのは、まずはソロアーティストとしての細野だろう。『HOSONO HOUSE』(1973年)、それに『トロピカル・ダンディー』(1975年)に始まるトロピカル3部作は時代を超えた秀作であり、『フィルハーモニー』(1982年)、『omni Sight Seeing』(1989年)といった重要作では世界中の民俗音楽の要素を取り入れている。2000年代に入ると『HoSoNoVa』(2011年)などルーツであるカントリー&ウェスタンに接近し、自らのボーカルを積極的に聴かせるようになる。このころには細野をリスペクトするSAKEROCKのメンバー、星野源との幸福な出会いもあった(細野が歌うように勧めたことがシンガー星野源の誕生につながっている)。同時期の細野はライブにも意欲的になり、国内はもちろん、ソロで初のアメリカ公演も成功させている。そして彼の音楽的な側面として他に挙げられるのは、一つは映画音楽家としての横顔だ。『銀河鉄道の夜』(1985年)、『万引き家族』(2018年)などの諸作では物語性を膨らませる楽曲を作り出しており、その手腕は高く評価されている。他にゲーム『ゼビウス』の音源を使用したアルバム制作や、観光音楽と銘打ってのシリーズ、また一時期はアンビエントに傾倒するなど、音楽に対する貪欲さは目を見張るほど。ソングライターとしては松田 聖子の「天国のキッス」(1983年)、安田成美の「風の谷のナウシカ」(1984年)など相当数の楽曲を書き、サウンド面のプロデュースワークも含め、その仕事はすさまじい量に及ぶ。加えて、忌野清志郎、坂本冬美とのHISや、コシミハルとのswing slowなど関わったバンドやユニットも多い。もし細野という存在がなかったら、日本の音楽界のあらゆる部分が開かれないままであっただろう。そんな細野は、気がつくとまた別の場所で、また違う方向を見ながら音楽に向かっているに違いない。そこではやはり、ひょうひょうとした顔をして、他の誰も思いつかないような音楽を奏でていることだろう。
- 出身地
- Tokyo, Japan
- 生年月日
- 1947年7月9日
- ジャンル
- J-Pop