ヒップホップの誕生50年を祝って、世界各地のさまざまなヒップホップサウンド、歴史、コミュニティを紹介する。まずは、厳選されたアルバムやプレイリストを通して、日本国内におけるヒップホップを深掘り。さらにスクロールして、オーストラリア、中国語圏、ドイツ、フランス、イギリス、インド、韓国、メキシコなど、世界各国のヒップホップを学ぼう。

J-ヒップホップ・ エボリューション

日本のヒップホップの進化が大きく加速したのは2010年代に入ってからだ。アメリカをはじめとして世界各地で、2000年代末頃からインターネットでオリジナル楽曲や非公式リミックス/ビートジャックなどを発表して名を売るアーティストが数多く登場。そんな中、完全自主制作で、世界のトレンドをリアルタイムで踏まえながらオリジナリティあふれるラップスタイルを国内外に向けて提示したKOHHは、この時期にインターネット経由で瞬く間に頭角を現したアーティストの代表格だといえるだろう。 もう一つの大きな波としてはフリースタイル・ラップバトル人気の爆発がある。後にBAD HOPを結成するT-PablowとYZERR、ちゃんみな、WILYWNKAらを輩出しただけでなく、特別な機材や音楽の知識がなくても気軽に参加し楽しめるクリエイティブな遊びとしてフリースタイルラップが広く浸透することにより、若年層とヒップホップの距離が一気に縮まった。 さらに、新感覚のアーティストが次々に登場したのもこの時期だ。クールなスタンスと研ぎ澄まされたセンスで東京のヒップホップの新たな世界観を展開したKANDYTOWN、東京の闇夜でうごめく刺激的なストリート感覚を体現するYENTOWN、動画投稿サイトで公開したミュージックビデオからスターダムを駆け上ったJP THE WAVY、ひりつくような緊張感を漂わせながらストリートのリアリティを吐き出す舐達麻、そして次世代のラップスターの発掘を目的としたオーディション番組からはTohjiや¥ellow Bucksなどが続々と現れた。また、DJ RYOWやDJ CHARI & DJ TATSUKIのようなDJ/プロデューサーが、地域や世代を超えたさまざまなラッパーとのコラボレーション作品を数多くリリースし、シーンの縦軸と横軸を有機的に結び付けて盛り上げるインフルエンサー的な役割を果たしてきた点も見逃せない。 過去から続く蓄積の上に新しい世代のさまざまな動きが交わることで、ラップの面でもサウンドの面でも大きな化学反応が生まれたこの年代以降、日本のヒップホップの最先端モードは飛躍的に進化している。

オーセンティシティの確立

日本においてオーセンティックなヒップホップ、言ってみれば“王道”と呼ぶべきスタイルが確立された時期は、1990年代後半~2000年代初頭だといえる。日本語でどのように韻を踏みフロウするか、どんなトピックをどんなスタンスでラップするかはもちろん、サウンド作り、ライブ/DJイベント、さらにはファッションや立ち振る舞いといった面まで、海外のトレンドに目配せしつつも、あくまでも自分たちのリアルな生活のコンテクストの中でヒップホップを表現することの試行錯誤が大きな成果を挙げたのがこの時だった。 1996年7月7日にECDの呼びかけで日比谷野外音楽堂で開催され、キングギドラ、RHYMESTER、LAMP EYE、SHAKKAZOMBIEらが出演したイベント『さんピンCAMP』はその象徴的な出来事だった。奇しくもその一週間後に同じ会場でスチャダラパーを中心とするリトル・バード・ネイションが成功させた『大LB夏まつり』や翌1997年から代々木公園で開催された『B-BOY PARK』なども含めて、黄金時代と呼ぶにふさわしい盛り上がりを見せた。 その後も、妄走族、MSC、SCARS、ANARCHYのようにストリートのリアリティをハードコアなスタイルで表現するアーティストが人気を集める一方で、フリーキーなフロウとインパクト抜群のパンチラインで異彩を放つ鎮座DOPENESSや、darthreiderとMETEORと環ROYが設立したDa.Me.RecordsからはKEN THE 390やCOMA-CHIらが登場するなど、シーンはより多様化しながら成熟を見せることに。その中でも、独特かつストイックなスタンスでユニークなサウンドとリリカルなラップを追求するPSG、Fla$hBackS、SIMI LABといったユニットや、MONJUを中心とするDOWN NORTH CAMPなどのクルーから才覚が現れたのも大きなポイントだ。幅広い人気を集めることになるPUNPEEをはじめ、Fla$hBackSのKID FRESINOとJJJとFEBB、MONJUのISSUGIと仙人掌とMr.PUG、SIMI LABのOMSBやMARIAらがソロでも活躍し、さらにはBIM、in-d、VaVa、JUBEEらを擁するCreativeDrugStoreがシーンをにぎわすなど、新感覚でありながら日本のヒップホップの“王道”としか呼ぶことができない作品が生まれ、現在進行形のシーンのキーパーソンとなる個性豊かなアーティストたちが登場する土壌になった。

バズヒット/チャートイン

スチャダラパーの「今夜はブギー・バック smooth rap (feat. Ozawa Kenji)」とEAST END + YURIの「DA・YO・NE」が日本のヒップホップを代表する最初のヒット曲であり、ヒップホップとラップという表現形態の魅力を日本の音楽シーンに幅広く知らしめる大きな契機になったことは紛れもない事実といえる。どちらも1990年前後からアンダーグラウンドシーンで活動するグループであり、同じ1994年にリリースされ、他ジャンルのアーティストとのコラボレーション楽曲だったこと、そして口コミなどで見る見るうちにチャートを駆け上がっていったという共通点を持つこの2曲は、SNSどころかインターネットすら普及していなかった時代のバズヒットだったといえる。その後、m-floの「been so long」(1999年)、KICK THE CAN CREWの「マルシェ」(2002年)、RIP SLYMEの「楽園ベイべー」(2002年)、ケツメイシの「トモダチ」(2002年)、Def Techの「My Way」(2005年)などが、ヒップホップの枠に収まりきらないスケールの成功を果たしたが、そのどれもがヒップホップ/ラップという表現手法があったからこそ生み出された楽曲だ。 2010年代に入ると、ちゃんみなやCreepy Nutsのようなジャンルの壁を軽々と乗り越えて活躍するアーティストが登場する一方で、インターネットがヒップホップの新たな現場になった時代ならではのチャートやヒットの流れが生まれた。SNSや動画投稿サイトなどで大きな盛り上がりを見せたアーティストや楽曲も数多く、若い世代から絶大な支持を得た変態紳士クラブの「すきにやる」(2017年)「YOKAZE」(2020年)やBLOOM VASEの「CHILDAYS」(2020年)、百足 & 韻マンの「君のまま」(2023年)などは新しい時代のバズヒットと呼ぶことができるだろう。

ローカルシーンとスターたち

2010年代以降のヒップホップシーンを見渡すと、アメリカ文化の影響が強い沖縄をルーツとし、ローカルへのこだわりを明確に打ち出すアーティストの活躍が目を引く。唾奇、MAVEL、MuKuRoらを擁する604のようなクルーから、フリースタイル・ラップバトルで名をはせてスターダムを駆け上がったCHICO CARLITO、地元の若手を牽引して全国区で活躍するAwichのようなアーティストまで、さまざまなスタイルのアーティストがシーンを盛り上げている。 ただ、このような現象は目新しいものでもなければ沖縄に限られた動きでもない。TOKONA-Xという揺るぎないアイコンを筆頭に、DJ RYOW、AK-69、呂布カルマ、¥ellow Bucksのようなアーティストを輩出してきた名古屋~東海地方や、韻踏合組合やSHINGO★西成からWILYWNKAや梅田サイファーまで世代を超えてマイク巧者を生み出してきた大阪。さらにOZROSAURUS、サイプレス上野とロベルト吉野、Leon Fanourakisらによって東京とは一線を画すシーンが育まれてきた横浜、そしてBAD HOPの登場で注目を集める以前からSCARSやJJJ、さらにはKOWICHIやDJ TY-KOHといった個性的なアーティストを輩出してきた川崎など、その土地ならではのカルチャーやカラーを継承しながら発展してきたシーンが多く存在する。 音楽に限らず、日本のエンターテインメント全般の傾向として地方都市出身のタレントが成功を求めて上京するという東京一極集中の構図がデフォルトだった一方で、ヒップホップシーンでは1990年代から少し違う様相を呈していた。例えば、1998年のデビュー作『STILLING, STILL DREAMING』で札幌から革命の狼煙を上げたTHA BLUE HERB。または、2002年の「雪ノ革命」で仙台で活動するという固い決意を高らかに歌い上げたGAGLE。地元を愛し、地に足をつけた活動でその土地に固有のシーンを作り上げた彼らは、東京を含む日本全体のシーンにも影響を及ぼすようになった。 こうした日本全国のユニークなシーンの盛り上がりは、逆説的に“東京ローカル”とでも呼ぶべき東京ならではのアンダーグラウンドシーンを際立たせたことも含めて、日本のヒップホップを語る上で決して無視できない特徴だ。

ビートに魅せられて

サンプラーを楽器のように扱うスタイルで大きな話題となり、2016年にPUNPEEとの共演曲「夜を使いはたして」がヒットしたSTUTSの登場は日本の音楽シーンにフレッシュな衝撃をもたらした。その後も星野源や松 たか子と共演してジャンルの枠を超えた注目を集めたが、作品の発想はヒップホップそのもので、日本のヒップホップのオルタナティブとでも呼ぶべき系譜の最先端を強く感じさせた。 その系譜に着目すると、プロデューサー/トラックメイカーやDJの流れが見えてくる。Chaki Zulu、JIGG、ZOT on the WAVE、KMといった新たなモードを生み出す気鋭のプロデューサーをはじめとして、「I Rep」(2010年)で知られるBACHLOGICはもちろん、DJ WataraiやMr.BEATS a.k.a. DJ CELORYなど1990年代から活躍するアーティストから、参加したLil Durk「The Voice」(2020年)が全米ヒップホップ/R&Bチャート1位を獲得したことで知られるTRILL DYNASTYまで、数多くのプロデューサーたちが存在する。DJ KRUSH、Nujabes、Olive Oilといった海外でも人気のプロデューサーや、ヒューマンビートボクサーのAFRA、そして、DJ KENTARO、DJ IZOH、DJ松永のように世界タイトルを獲得したターンテーブリストも見逃せない。 また、ヒップホップがなければ生まれなかったであろうユニークな作品をリリースするアーティストたちもいる。文学的なリリックで異彩を放ったかせきさいだぁをはじめとして、刺激的なサウンドと切れ味鋭いリリックでシーンに衝撃を与えたShing02、ナードでも不良でもないキャラクターとリリカルなセンスが個性的なdodo、既成概念に囚われない奇想天外な世界観を展開するゆるふわギャング、感情に強く訴えかけるエモーショナルなラップが魅力の(sic)boyなど。彼らは、オーセンティックなヒップホップとは少し違う感触で、日本のヒップホップに幅と深みをもたらすアーティストたちだ。

オーストラリア

オーストラリアのヒップホップにおける最初の重要な分岐点は、2003年にHilltop Hoodsのサードアルバムが、国内のラップ作品として初めてメインストリームで成功を収めた時だった(その後、初めてプラチナ認定された作品にもなった)。しかし、ヒップホップがオーストラリアに上陸したのはその何年も前のことで、テレビの音楽番組や、アメリカに行った友人が持ち帰ったテープやアナログ盤を通じて普及していった。ヒップホップはすぐに移民としての出自を持つ、流行に敏感なリスナーたちの共感を呼び、中には自ら音楽制作を始めた者もいた。Def Wish CastやAKA Brothersのようなアーティストたちがミックステープをリリースしたり、ライブを行ったりする中で、一つのシーンが発展していった。 インディーズのヒップホップレーベルの存在は、まさにシーンと、成長過程にあったコミュニティが必要としていたものだった。1995年にレコード屋としてスタートした、メルボルン拠点のObeseは、Hilltop Hoods、Drapht、Illyを含むアーティストたちの初期のアルバムをリリースし、The Herdのメンバーが1998年に設立したシドニーのELEFANT TRACKSは、Horrorshow、Joelistics、Jimblahのキャリアを始動させた。アンダーグラウンドのシーンは繁栄し続け、Koolism、Funkoars、1200 Techniquesを含むグループが多様性や移住者の話を代弁していたにもかかわらず、本当に成功することができたのは、そのほぼ全員が白人だった。“オージー・ヒップホップ(Aussie hip-hop)”とは、メインストリームの成功やメジャーレーベルとの契約を勝ち取った、地元アーティストによるサウンドやルックス(白人であること)を定義する言葉として使われるようになった。 2010年代に入ると、UKのグライムやドリル、アトランタのトラップ、R&Bとポップラップを含む音楽ジャンルの影響と、Sampa The Great、Tkay Maidza、Kwamé、L-FRESH The LIONを含む、文化的に多様なアーティストたちの突然の出現により、“オージー”ではなく“オーストラリアの”ヒップホップが拡大し、進化し始めた。先住民のデュオ、A.B. Originalは、2016年にシーンの次なる重大な瞬間をもたらした。アルバム『Reclaim Australia』とリードシングルの「January 26」で、国の制度的人種差別や警察の蛮行、先住民の勾留中の死について、あらゆる手段を尽くして激しく非難したのだ。彼らはPUBLIC ENEMYやN.W.A.と比較されるようになり、多様性や厳しい現実への新たな扉を開いたのだった。 今日では、Onefour、Hooligan Hefs、Day1のような太平洋諸島出身のアーティストたちが、暴力や犯罪、社会経済的不利益がまん延するコミュニティの物語を伝えている。ザ・キッド・ラロイ(そのステージネームは自身のカミラロイ族の伝統に由来する)は海外で最も成功したオーストラリアのヒップホップアーティストの座に上り詰めたが、彼だけでなく他にもTasman Keith、JK-47、Ziggy Ramo、Barkaaなど重要な先住民アーティストが数多く登場しており、ヒップホップとそのリスナーを多様性に富む未来へと推し進めている。

カナダ

世界中の多くのリスナーにとって、カナダにおけるヒップホップの歴史は、二つの時代に難なく分けることができる。“ドレイク前”と“ドレイク後”だ。2010年代初頭にカナダ発の作品を世界的な現象へと変えてみせた彼の影響力はもちろん計り知れないが、実はカナダのラップの歴史は1970年代までさかのぼる。そこに才能とビジョンは常に存在していたものの、それらをサポートするために必要な音楽業界のインフラは遅れがちだった。国境の南側ではスターになっていたであろう先駆的なプレイヤーたちの中には、今日に至るまで、母国でもあまり知られていない人もいる。 Maestro Fresh-Wesの「Let Your Backbone Slide」のような、先駆的な1980年代の曲から、Rascalzが1997年にリリースした国民的アンセム「Northern Touch」、国境を超えたカーディナル・オフィシャルの2000年代のヒット曲の数々まで、カナダは常に国内に住むカリブ諸島やアフリカからの多くのディアスポラの影響も前面に押し出しつつ、アメリカからの輸入品に対抗できるラップを生み出してきた。しかし、テレビスターのような魅力とメロディの創造力を兼ね備え、インターネットに精通したドレイクは、ストリーミング時代の黎明期にカナダのラップを世界のステージに立たせる上で完璧な人物だった。そして、ドレイクが2010年代以降のヒップホップのサウンドを定義付けるOVO帝国を築く中、インターネットもまた、地元で活動するケベック人や先住民コミュニティのMCたちを、全国的なラップの話題へと押し上げるのに一役買った。ヒップホップは誕生50年を迎え、一般的にはノスタルジーが革新よりも優先される時代かもしれない。しかしカナダでは、その歴史が予測不能な形で刻まれ続けている。

中国語圏のヒップホップ

2017年、成都のクルーであるハイヤー・ブラザーズがリリースした『Black Cab』は、世界的にブレイクした中国のヒップホップアルバムの最初の一作となり、彼らは所属レーベルの88risingと共に、この地域に初めて国際的なスポットライトをもたらした。欧米のオーディエンスはもちろん、多くの中国人ですら話さない地域言語である四川語で、リリックのほぼすべてが書かれていたことを考えると、これは確かに見事な偉業だ。しかし、中国のヒップホップは、実はそれ以前から成長し、発展していた。地元の民話が現代音楽に取り入れられる一方で、ジョージ・ラムや崔健のような1980年代と1990年代のポップとロックのスターたちは、「阿Lam日記」や「不是我不明白」のような曲で、話し口調によるバースをトラックに挿入していた。 2002年には、デトロイト出身のDana “Showtyme” Burtonが、上海でフリースタイルの大会『Iron Mic』をスタートした。後に他の都市にも広がっていったこれらのバトルは、Lil Ray、派克特、小老虎のような地元のラッパーたちのキャリアをスタートさせた。テレビのタレントコンテスト『The Rap of China』は、それまでで最も多くのオーディエンスにヒップホップを届け、南京のShooc Studio、重慶のGO$H MUSIC、長沙の SUP MUSICを含む、各地域のシーンやレーベルが台頭し始めた。 他のシーンでもジャンルや文化の垣根を超えたフュージョンによって繁栄していた。台湾には 、L.A. Boyzによるエネルギッシュな1990年代のダンスソングや、ワン・リーホンが「蓋世英雄」(地球の英雄)のような曲で繰り広げる2000年代のポップラップがあった。また、香港のラッパーのジンが2003年に発表した、ワイクリフ・ジョンとのコラボレーション「Learn Chinese」は、アジア系アメリカ人の文化やレプリゼンテーションをたたえ、世界中の中国人コミュニティで大きな成功を収めた。超大物スターのJay Chouは、自身を台湾史上最大のポップスターの一人へと押し上げた、影響力の強いヒット曲「雙截棍」や「龍拳」に中国の古典楽器とニューメタルを持ち込み、ヒップホップファンにある種の後ろめたい喜びをもたらした。 今日のアーティストたちは、さらなる多様性、ストーリーテリングの要素、社会的な主張を加え、全面に押し出している。万妮达は2022年の『ONE LIFE ONLY』で、アフロビーツと自身の故郷である福州の民謡に共通点を見いだした。また夏之禹による、小さな町を脱出しようとする若者の波乱万丈の物語を描いた2023年の『Young Fresh Chin II』は、Nasにとってのニューヨークを彷彿させる。

ドイツ

1980年代初頭にヒップホップがドイツへと伝わった時、将来的に国内で最も成功を収めるジャンルへと進化するとは、誰も想像していなかった。ドイツの基地に駐留していたアメリカの軍人たちを介して到来したそのサブカルチャーは、まずはブレイクダンスとグラフィティが人気となり、すぐに音楽が続いた。曲を書いてプロデュースするよりも塗料のスプレー缶でペイントする方が簡単だったのだ。しかし、ドイツ人は一度ヒップホップの面白さに夢中になると、自分たちの声で音楽を作りたいという衝動を抑えられなくなった。ドイツのヒップホップの第一波は英語によるものだったが、1990年代初頭までには、Advanced Chemistry、Rödelheim Hartreim Projekt、Absolute Beginner(後にBeginnerに改名)、RAGのようなアーティストたちが、先駆けて母国語で韻を踏むようになった。 その後1990年代の終わりまで歳月を要したものの、ドイツのヒップホップは成長を続け、ポップやその他の人気ジャンルと並んで不動の地位を確立した。アンダーグラウンドも並行して拡大し続け、ローカルなシーンでは独自のサウンドやスタイル、フレーバーが発展した。シュトゥットガルトでは、1993年にFreundeskreisを含むアーティストたちがKolchoseというコレクティブを結成し、ローカルなシーンにプロフェッショナルなアプローチを取り入れた。そして同地とハンブルクのアーティストたちが、ヒップホップのストーリーテリングに対する詩的で叙情的なアプローチで知られるようになった一方で、フランクフルトとベルリンのアーティストたちは、バトルラップに根差したアグレッシブなストリートスタイルで評判を高めていった。ベルリンが拠点のKool Savasとフランクフルトが拠点のラッパーのAzadは、1990年代にはすでに基盤を築いていたが、2001年に設立されたアンダーグラウンドのヒップホップレーベル、Aggro Berlin(「アグロ」は攻撃的な態度を意味する)の存在により、妥協のない激しい性質は、まさに現象そのものとなったのだった。 その後の数年間は、移民の背景を持つヒップホップの才能が台頭。トルコや中東、バルカン半島のアーティストたちとその音楽の影響を持ち込むことによって、ドイツラップの範囲とサウンドを拡大する上で一役買った。Haftbefehl、XATAR、Massiv、Azet、Summer Cemは、この点でドイツの若者文化の形成に決定的な役割を果たし、次の時代には、特にダンスホールやアフロトラップの影響力が増大した。CRO、RAF Camora、Bonez MC、Capital Braのようなラッパーたちによる貢献や、badmómzjay、Shirin David、JUJU、Loredanaのような女性アーティストが存在感を増すおかげで、ドイツのヒップホップは現在、チャートのトップに確固たる地位を築いている。

フランス

1980年代初頭、ヒップホップがフランスに到来すると、電撃的な勢いでたちまち話題をさらった。1984年、ラジオDJでヒップホップの熱狂的なファンだったSidneyが、ブレイクダンスのコンテストを主催し、子どもたちにこの新しい文化的現象を紹介するために全国放送の一枠を得た。それが、短命ながらも伝説的なテレビ番組となった『H.I.P. H.O.P.』だ。大西洋の向こうから迎えた大物ゲストたちと共に、Sidneyと彼の番組は、ダンス、グラフィティ、ラップ、DJに携わる全世代のアーティストに影響を与えた。 このムーブメントは業界内でも勢いを増し、Radio Novaのような新しくて“自由”なFM局で放送されるようになった。この文脈の中で、1990年のデビューシングル「Le monde de demain」や、カルト的人気を集めた1995年のアルバム『Paris sous les bombes』などを通して労働者階級のコミュニティが抱く怒りや苦悩を体現した2人組、Suprême NTMをはじめとする多くのアーティストが登場した。フレンチヒップホップの人気は1990年代の間にますます高まっていき、マルセイユとパリのシーンでは、アイ・アムのようなグループやMCソラーのようなソロアーティストによるメインストリームのヒット曲が誕生した。 21世紀が近づくにしたがって、ニューヨークやブーンバップからの影響は、LAやアトランタのヒップホップからの、より壮大なプロダクションに変わっていった。ラップとR&Bのグローバルな商業的成功は、フランスにおけるヒップホップの大ヒット曲の数々にテーマの変化をもたらし、さらなる物質主義や、大きなエゴ、たくさんの虚栄が見られるようになった。それは、政治や社会問題に焦点を当てた作品が多い、それまでのリリースのトーンからの脱却だった。そして音楽的に言えば、2000年代以降のフレンチヒップホップシーンは、その歌声がどんどんポップミュージックに近づくと同時に、アフロカリビアンや北アフリカからの影響も掘り下げるようになった。 このような歴史に基づいて、Jul、Ninho、SCH、PNL、Niska、Damsoのようなアーティストたちは、2010年代半ばから後半にかけて新たな道を切り開いた。フランス語によるヒップホップを、国境を超えて推進し、チャートを駆け上がらせたのだ。このバイタリティは新しい世代にインスピレーションを与え、ドリル、プラグ、ジャージークラブのようなサブジャンルへと広がっていった。

イギリス

ヒップホップカルチャーが世界的に広まった1980年代、イギリスにおけるヒップホップサウンドの受容は、ディアスポラ的なスタイルやローカルシーンと結び付いていた。この時代の初期のアーティストたちは、ヒップホップの中心的要素だったMCやブレイクダンス、DJの恩義を明らかに感じていたが、1990年代に入ると新たなアイデンティティを確立する必要性が浮上した。例えば、London Posseは「Money Mad」と「How’s Life in London」で、新世代のラッパーたちに自分たちの声の正当性を立証するよう鼓舞した。 UKヒップホップは、イギリスのサウンドシステムカルチャーの多様な遺産とともに洗練されることで向上し続けた。2000年代まで話を進めると、ロンドン出身のミス・ダイナマイトは『A Little Deeper』で、ディジー・ラスカルは『Boy In Da Corner』でまれに見る高い評価を獲得し、突出していた(それぞれ2002年と2003年のマーキュリー・プライズを受賞)。2人とも、苦労して勝ち取った信頼や、スキルの高いライム、アンダーグラウンドで磨かれた音楽性の上に成り立っていた。これらが融合したシーンは、グライム、ジャングル、ドラムンベース、あるいは、ガラージの滑らかなフレージングを通して、メインストリームを超えて浸透していった。 その10年後、スケプタは待望されていたグライムの全国的な第二波を起こす上で一役買った。リバイバルのきっかけとなったのは、Meridian Danが2014年にチャートを騒がせた遊び心あふれる楽曲「German Whip」だった。数か月後、シングル「That’s Not Me」でMOBO Awardの最優秀ビデオ賞を受賞したスケプタは、来るべき大変革を予測した。わずか80ポンドで制作された同曲のミュージックビデオは、アンダーグラウンドへの回帰や、アメリカの恩恵を受けたサウンドやスタイルを避けたグライムのDIY精神を示唆するものであり、NovelistやStormzyといった新たなメインストリームの波を紹介した。そしてスケプタは2016年に4作目のアルバム『Konnichiwa』をリリースし、そこではUKのレジェンド(D Double EやWiley)とアメリカのレジェンド(Pharrell WilliamsとA$AP NAST)の両方を真の対等な立場として迎え入れ、UKヒップホップ帝国時代の幕開けを告げた。今日では、デイヴ、Little Simz、Central Ceeのような多彩なアーティストたちが、その信頼性と実験的勇気の精神を生かして、チャートや批評家のリストの上位に君臨している。

インド

インドの大物ヒップホップアーティストたちにヒップホップとの出会いのきっかけを尋ねたら、映画『8 Mile』でエミネムがラップに没頭する姿に魅了されたとか、パーティーで50セントの「In da Club」に引きつけられたなどと答える人が多いはずだ。あるいは、ある程度の年代の人であれば、衛星テレビの黎明期に、インドのラッパーでエンターテインメント界の人物でもあるBaba Sehgalが音楽チャンネルで披露した悪ふざけを見て、面白がって夢中になったのかもしれない。 インドのMCたちは、ヒップホップのスーパースターたちを通して、あるいは、アパッチ・インディアンやパンジャビMCによるダンサブルなバングラフュージョンの曲を通して間接的にヒップホップへとたどり着いたのかもしれない。だが、彼らはそれを独自のものにしてきた。Sidhu Moose Walaのギャングスタラップから、Swadesi のコンシャスラップ、そして、MC Stanのマンブルラップまで、インドにはメインストリームのムーブメントに相当するデシラップと、ムンバイのガリーラップのような地域発の分派が存在する。 今日のインドのヒップホップは、映画(劇中のすべてのパーティーシーンでヒップホップが流れてくるのが聴こえるはず)からストリートまで広がる勢力だ。アーティストたちはヒンディ語、英語、そして無数の地域の言葉で、インドの若者の生活や時代、奮闘を記録し、真実を語り、純真な正直さをもって物語を共有している。例えば、目まぐるしく変化するムンバイにおける人々の奮闘についてヒンディ語で語るDIVINEや、差別を受けても前進することを英語でラップするBrodha V、社会政治的な問題をタミル語で訴えるArivuなどだ。そして、国民は耳を傾けている。Azadi RecordsやKalamkaarから、Gully Gangや The Mvmntまで、コレクティブ、レーベル、マネジメント、ブランド、ライブプロモーターは、いずれも人気に関しては欧米の他ジャンルを一段上回るムーブメントを支持している。その成長はインドの国境を超えて感じられる。パンジャビラップを代表する人気アーティストの多くはカナダで活動しており、AP Dhillon、Karan Aujla、Shubhといった移民一世がディアスポラとして新境地を開拓している。 Badshah、King、MC Stan、Raftaarのようなラッパーたちがチャートを席巻し、ツアーを完売させている一方で、Ahmer、Naezy、Prabh DeepのようなMCたちは、メインストリームからは無視されている地域特有の物語を共有するべく、政治的な内容のリリックを作り出す。そして、まだ女性を代表するアーティストが少ないインドのヒップホップシーンだが、インド系アメリカ人のラッパーであるRaja Kumariを含むアーティストたちが、新世代のために道を切り開いている。

韓国

1992年4月11日、Seotaiji and Boysというグループがテレビの音楽番組に出演して、ヒップホップトラック「I Know」の激しいパフォーマンスを披露した。まさかそれが、韓国がヒップホップに注目し始めた瞬間とみなされるとは、誰が想像していただろうか。それ以前にも、RUN D.M.C、M.C.ハマー、PUBLIC ENEMYのような欧米のヒップホップアーティストが徐々に国内で注目を集め始めていたが、その興味はニッチなもので、その音楽は異質な存在だった。Seotaiji and Boysのパフォーマンスは、ヒップホップを自分たちのものとし、さらに大きなスポットライトを浴びさせたのだ。 音楽的なヒントはアメリカのヒップホップから得ていたものの、テーマは軽く、社会的、政治的なメッセージには、ほとんど注意が払われていなかった。その代わりに、1990年代の韓国のヒップホップは、ロマンス、パーティー、日常生活、セルフプロモーションといったテーマに焦点を当てていた。しかし、10年の間に状況は変わり始め、2000年代半ばには、アンダーグラウンドのラッパーやレーベルが出現した。ドランクンタイガー、Garion、CB Massのようなアーティストたちは一般的なテーマを避け、より深く掘り下げ始めた。そこから、소울 컴퍼니(Soul Company)のようなアンダーグラウンドのアーティストが登場し、Bigdeal RecordsがDeepflowやMild Beatsのキャリアをスタートさせた。また、Verbal Jint、E SENS、Swingsのようなアーティストたちは、よりテクニカルなリリックのフロウとライムでレベルを引き上げた。これらの発展と並行して、Dynamicduoやエピックハイのようなメインストリームのアーティストたちは、ヒップホップをより幅広いオーディエンスに届けていった。 2012年、テレビのオーディション番組『SHOW ME THE MONEY』が韓国のヒップホップシーンに激震を走らせた。この番組は韓国のヒップホップ全体における新たな中心地になったと広く受け入れられ、Kang Il Kwonのような著名な評論家たちは、このシリーズがシーンの中心であるとまで主張した。それはHi-Lite RecordsやJust Musicのようなレーベルの成功を促進しただけでなく、アメリカからやって来たトラップやエモラップのような新しいサブジャンルを広めた。今日では、韓国のヒップホップはメインストリームの音楽シーンにしっかりと定着しており、アンダーグラウンドのシーンは進化し続けるストーリーテリングとプロダクションのアプローチにより、成長と繁栄を続けている。

メキシコ

1980年代の終わりにかけて、ヒップホップはアメリカから世界で一番活気のある国境を越えて南下し、最も多産な国際的シーンの一つであるメキシカンラップ、別名“ラップ・メクサ”を生み出した。このジャンルはテープや雑誌を輸入していた移民ディアスポラを通して、故郷で暮らす第一世代のリスナーたちへとたどり着いた。こうしてメキシコ初期のラップグループが誕生したが、全国的なシーンが形成し始めたのは1990年代に入ってからのことだった。 最初にメキシコ全土で流通した国内の作品は、コントロール・マチェテやVLPのようなグループによってリリースされたものだったが、ストリートには数多くのプロジェクトから誕生したインディーズの曲があふれていた。2000年代に入ると、Sekreto G-Lokos、La Vieja Guardia、Magisterioらが足跡を残した『Rapza』シリーズなどのコンピレーションが、当時のシーンの証人となった。 アーティストたちはメキシコ各地で自分たちの物語を語り、その現実を共有した。例えば、ラップ・デル・ノロと呼ばれる北西部のラップは、地域特有の社会政治的アイデンティティと西海岸への近さが、Elote el BárbaroやLa Banda Bastönのような規範的なアーティストを形作った。さらに、DangerやEptos Unoのような第一世代のバトルキャットたちからAczinoに至るまでのフリースタイルの主導者たちがシーンに新たなスキルセットを持ち込んでいる。また、Vicky MC、Hispana、Niña Dioz、Mare Advertencia Lirika、Yoss Bonesなど、マイクを握って現状への不満を主張する女性も増えている。 メキシコのヒップホップは、アンダーグラウンドとメインストリームの間のギャップや押し引きによっても定義される。それはコントロール・マチェテの1997年のスマッシュヒット『Mucho Barato』におけるクロスオーバーや、C-Kan、Alemán、Gera MX、Santa Fe Klanなど、独自のオーディエンスを生み出すために従来の商業的な手段を回避し、ラップ・メクサを新しい次元へと引き上げる、現代の若手MCたちにも当てはまる。

タイ

2022年にアメリカの音楽フェスティバル、Coachellaで、タイのラッパーのMILLIが披露した「SAD AEROBIC」と「Mango Sticky Rice」(彼女がステージ上で食べた料理の名前でもある)のエネルギッシュなパフォーマンスは、タイのヒップホップにとってターニングポイントとなった。その2曲は、タイのアーティストがスタイルや言語の制限に縛られることなく、自由に自己表現する方法を見いだしたことを象徴している。 タイのヒップホップからは、常に欧米からの影響が感じ取れるが、そのサウンドとリリックには、地元の文化的背景が色濃く反映されている。今日のタイのラッパーたちは、心とストリートの両方からストーリーを語っているのだ。2017年に結成されたコレクティブRap Against Dictatorshipは、その名の通り、政治や社会論争に正面から取り組んでおり、彼らの活動は世界中の人権団体に認められ、賞賛されている。個人レベルでは、AUTTAはタイ社会においての意識を高め、会話を増やすことを目的に、メンタルヘルスに関する自身の経験を包み隠さず話しており、Rhymekhamhaengは自身が暮らすバーンカピ区での生活を鮮やかに描写した楽曲の中で、伝統的な曲をサンプリングすることで文化を深く掘り下げている。 ヒップホップの曲やビデオは、リリックやサウンドがキャッチフレーズとして採用され、バイラルヒットすることが多い。2023年のアルバム『ธาตุทองซาวด์(THATTHONG SOUND)』で、学校や友だちについて正直かつ思慮深く語るバンコクのYOUNGOHMは、タイトルトラックで二つのキャッチーなフレーズを放ち(「Yo! This is the sound from temple boys」と「E Kie」という名前)、ヒップホップコミュニティをはるかに超えて人気のスラングとなった。多作さを誰もが認める新進気鋭のアーティスト、1MILLと Saranは、バイラルで名声を得た新世代のアーティストだ。また、SPRITEとGUYGEEGEEによる2021年のコラボレーション「ทน(Ton)」が、タイの曲として史上初めてBillboard Globalチャートにランクインした時、それはファンにとっては周知の事実だった、タイのヒップホップはジャンルやカルチャーの境界線を超越しているということを再確認しただけだった。

南アフリカ

ヒップホップは本質的に文化や表現の自由と結び付いているが、南アフリカにおいて、このジャンルの成長は自由と平等に向かう国の歩みとリンクしている。1980年代中頃はバブルガムポップサウンドに特徴づけられていたが、ラッパーのSenyakaが、シングル「Go Away」を生み出した1986年のアルバムでディスコビートに激しいラップを乗せて、南アフリカヒップホップの最初期にパイオニアの一人として頭角を現した。ヒップホップの火付け役はケープタウンの南東部ケープフラッツにも現れ、ブレイクダンスクルーのBlack Noiseが、グラフィティアート、DJ、社会的なリリシズムを取り入れた本格的なヒップホップのユニットとして登場した。その一方で、Prophets of da Cityは1990年と翌年に、率直な姿勢で反アパルトヘイトを表明したアルバムを2作リリースしたが、最終的に南アフリカ放送協会(SABC)によって、ラジオやテレビで放送禁止となった。 南アフリカの民主主義の到来とともに、1990年代には新たな世代が地元と世界の両方のステージで自らのアイデンティティを確立しようとしていた。1997年にハウテン州のラジオ局YFMが登場すると、地元のラッパーたちに楽曲を共有する手段を提供した。ケープタウンのBrasse Vannie Kaapのようなグループは地元のスラングを取り入れ、アーティストたちがアメリカ風のサウンドから遠ざかるという変化の一端が始まっていた。 その傾向は2000年代初頭まで続き、ヒップホップカルチャーは同郡の若者たちにとって主要な表現形式となった。Skwatta Kampのセカンドアルバム『Mkhukhu Funkshen』は、ゴールド認定された初のヒップホップ作品となり、多くの後続アーティストたちのために道を開いた。サブジャンルのモツワコは、HHPのようなアーティストが英語とツワナ語でラップし始めたことで人気を集め、そのサウンドはさらに関連性を増した。 2010 年代以降、南アフリカのヒップホップは現在の黄金時代に突入した。新世代のアーティストたちは、英語とその土地特有の言葉を取り入れたストリートスラングを織り交ぜて、クワイトやダンスカルチャーから影響を受けた音楽的ベースの上で日常生活の試練と勝利を表現している。今日、Cassper Nyovestを含むスターたちは、ヒップホップにおける自作自演精神の見事なお手本となっており、故Riky Rickは、自身が設立した音楽フェスティバルで、文化的な現象となった『Cotton Fest』を通して、“カルチャーのためにやる”という遺産を確立した。Blxckieのような新進気鋭のスターたちは、現代のドリルやトラップのサウンドを超地域密着型のストーリーテリングに組み込むことで、革新の精神を受け継いでいる。