

松本隆:ソングライター
「お手本も教科書もなく、すべてが手探りだった」。松本隆は作詞を始めた当時について、Apple Musicに語る。1969年、松本は日本の音楽史に名を刻むバンド、はっぴいえんど(当時のバンド名はヴァレンタイン・ブルー)にドラマーとして所属していた。ある日メンバーたちは西麻布の中華料理店に集まり、歌詞は日本語か英語のどちらでいくかという議論を交わした。「僕は19歳だったかな」と、松本は振り返る。「英語だと借りものみたいになってしまうから、日本語のロックを追求しようと、僕が説き伏せたの。19歳の頑固さでね(笑)。それで結局、細野(晴臣)や大瀧(詠一)も引っ張られたという感じ」 日本語で歌詞を書くに当たっては、ドラムの松本とベースの細野によるリズム隊が中心となり、新たな道を探った。「僕らが一番影響を受けたのはR&Bなんだけど、当時はR&Bのグルーヴに日本語は乗らないと考えられていた。そこで自分たちが作り出せば一つの方向標識になるんじゃないかと、実験と研究を重ねて手探りで作っていった。僕には細野晴臣という強力なパートナーがいたから、それができたんだ」。かくして、はっぴいえんどは“ゆでめん”の通称で知られるアルバム『はっぴいえんど』で日本語ロックの礎を築く。 はっぴいえんどの解散後、松本は作詞家としてキャリアを積み始める。その時に彼の才能を高く評価したのが、日本の歌謡界を代表する作曲家、筒美京平だった。以降、筒美と松本のコンビは、昭和を代表するアイドルたちの歌謡曲を次々と手掛け、時代を超える数々の名曲を残す。 長きにわたり日本語の響きを探求してきた松本は、言語学者のようでもある。「2,000曲の歌詞を作って体験的に分かったことがある」と彼は語る。「例えば“さ行”は静か。わびさびの世界だね。母音の“い”は切なさがある。“い”の発音はとても難しいんだけど、松田 聖子はできる。だから『赤いスイートピー』は最後のフレーズでものすごく切なくなる」 松本が歌詞を書く上で最も大事にしているのは“ノリ”であるという。「僕はドラマーだから」と彼は語る。「ビートルズにはリンゴ・スター、ザ・ローリング・ストーンズにはチャーリー・ワッツがいて、彼らのグルーヴがあるからこそ、あれだけ売れたわけ。まずはグルーヴがあり、その上にメロディが乗り、歌が乗る。それはとても大事なことです」