はじめての 洗星海

はじめての 洗星海

エネルギッシュかつ壮大なスケールを持つ楽曲を生み出し、歴史の大きなうねりの中にあった中国の国民を鼓舞した作曲家。洗星海は1905年にマカオで生まれ、幼い頃から音楽の才能を発揮。北京や上海でヴァイオリンなどを学ぶ。ベートーヴェンやワーグナーといった作曲家たちに強い憧れを抱いていた彼は、1929年にパリに留学。1934年にはポール・デュカスに実力を認められてパリ国立高等音楽院の作曲科への入学を果たしている。その恩師デュカスの死を受けて1935年に中国に戻った後は、魯迅芸術学院で教壇に立つなどしながら作曲を行った。1940年代の前半はソビエト連邦で過ごすが、1945年に病を得てモスクワで亡くなっている。代表作の一つである『黄河大合唱(The Yellow River Cantata)』は、洗の死後四半世紀が過ぎた1969年、文化大革命のさなかにピアノ協奏曲に改編され、愛国的な音楽として当局に擁護された。そのため、演奏がタブー視された時期もあったが、現在では中国出身のスターピアニスト、ラン・ランがレコーディングするなどして、その高い音楽性が再評価されている。